こんにちは。
先日「ある男」という本を読みました。
この本は簡単に要約すると死んでしまった夫の名前が実は偽名で全く違う人物あり、その夫の過去を紐解いていく物語です。
夫は物語の中で、全く違う人物になりすましていたのだけれども、その構図が少しVtuberと重なる部分があるのではないかなとこの本を読んで思いました。
以下若干ネタバレになるので、本の内容を知りたい人はまずは本を読んでみてください。
Vtuberとは自分の理想の姿?
Vtuberって理想の自分に近いモデルを作ってそれになりきることに幸福感を覚えるのだと思うのだけれども、そうなった時に現実世界の自分とはどう折り合いをつけているのだろうか。どんどんVR世界が発展していけばほとんどの時間をVR世界で過ごす人が出てきた時に、現実の自分のことはどう考えるのだろう
— Vtuberの解剖学者🛠️ (@obakasahara) July 29, 2019
本の中で「ある男」は自分の過去と向き合うことができなくなり、戸籍を交換することになります。
ある男は自分の過去にネガティブな感情を抱いていた訳だけれども、Vtuberをやる人もある意味、現実の中で過ごす「自分」という存在にネガティブな感情を抱いているのではないでしょうか?
ネガティブまでは行かないまでも、表現したい自分を表現できない現実の制限があるから、Vtuberという仮の姿によって、昇華させているのではないでしょうか?
もしそうでないなら、現実の自分の姿に似せたVtuberが存在してもいいはずです。
僕が見る限り、現実の自分の姿に似せたVtuberはほとんどいません。
そう考えるとVtuberという存在は現実の自分とは少し違う姿の、より理想に近いモデルに作る人が多いのではないでしょうか?
現実としての自分とVtuberとしての自分
本の中のある男は戸籍を交換することで過去の自分を捨てて、新しい自分として過ごしています。
ある男の過去の自分と新しい自分、VtuberのVR空間上の自分と現実の自分の構造は少し似ている気がします。
どちらも簡単に言えば現実逃避としての行動ではないでしょうか?
ある男で言えば過去の記憶・経歴、Vtuberで言えば現実をみたくないから戸籍を変えたり、VR空間で過ごしたりするのではないでしょうか?
現実の自分を肯定できるのか?
この本の著者の平野啓一郎さんという人は「分人主義」という概念を提唱しています。
分人主義とは簡単に言うと、個人の中には複数の人格があり、1つの人格というのは存在しないという概念です。
確かにコミニティによって、自分の振る舞い方は変わりますし、どれが本当の自分かどうかなんて定義はできないですよね。
この概念をインストールすれば、どれが本当の自分かという悩みはする必要がなく、どれも自分という考え方をすることができます。
この概念をVtuberに適応するとすると、Vtuberとしての自分と現実としての自分で分化できますね。
しかし、Vtuberとしての自分が理想に近い自分の姿だとすれば、どちらも自分として肯定できますか?
今現在はまだVR世界で1日ずっと過ごす人は少ないですが、そのうちプラットフォームが充実し、そういう人は増えていきます。
映画の「レディープレイヤーワン」的な世界観は割と近いと僕は思います。
そうなった時、現実としての1つの自分を肯定できますかね?1つの自分として肯定することはできますか?
肯定できない人は戻って来れなくなるんじゃないでしょうか?
ある男が過去を捨てたように、Vtuberは現実としての自分を捨てるのではないでしょうか?
実際、VR空間が発達して人口が増えていけばそこでの経済が発達し、VR空間でお金を稼ぐなんてことも可能になるでしょう。
そうすればほとんどの時間をVR空間で過ごし、現実に戻ってくる限りなく時間を少なくすることが可能です。
Vtuberとしての自分をどう捉えるか
Vtuberは自分のなりたい姿であるというのは僕の仮説です。
この仮説が正しいのであれば、上記でVR空間から帰ってこなくなる人はそれなりの数いるでしょう。
皆さんはVtuberとして振舞っている自分をどう捉えているのでしょうか?
皆さんはVtuberとしての自分と現実の自分をどう比較し、それぞれどう感じていますか?
これ疑問なので、そろそろ自分のアバター作って、VRchatで1日過ごしてみたいと思いますー。
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